礼拝メモ 1月10日

聖書 ルカの福音書23章39節-49節

 今朝は、十字架上で語られたイエス様の言葉の中の最後の言葉を思い巡らします。それは、46節にあります。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」

 ここに、「大声で叫ばれた」とあります。十字架につけられると、横隔膜が下がらなくなり、息をするのが苦しくなります。大きく息をするためには、痛む足に力を入れて身体を引き上げなければなりません。ですから、大声を上げるためには、苦痛を耐えなければなりません。苦痛を押してでも叫ばなければならないと、イエス様は考えたのです。それは、十字架を見ている人たちへの証しです。

 それでは、神の「御手」とはどういうものでしょうか。ダニエル書5章を見ると、ベルシャツァル王が塗り壁に書かれた文字を見て、恐れたことが記されています。そこにダニエルが呼び出されて、その文字を説き明かします。そのダニエルの言葉に、「あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しました。しかしあなたの息をその手に握り、あなたのすべての道をご自分のものとされる神を、あなたはほめたたえませんでした」とあります。

 神の御手は人の命を握っている御手なのです。その御手は、このときのようにさばきをもたらすこともあります。しかし、神に信頼する者には、守りと導き、支えと祝福をもたらします。イエス様はご自分の霊を父なる神の御手にゆだねました。

 この23章には、イエス様が苦しまれた時間が書かれています。イエス様が息を引き取ったのは、午後三時ごろでした。三時間、暗闇がおおったことが書かれています。「太陽は光を失っていた」とあるのは、日蝕ではなく、超自然的なことです。暗闇は、罪と結びつきます。主イエス様が苦しまれた理由が分かります。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」からです(Ⅰペテロ2:24)。

 イエス様が息を引き取ったとき、「神殿の幕が真ん中から裂けた」と書かれています。この幕は、神の臨在の至聖所と聖所を分ける幕です。大祭司が年に一度だけ入る至聖所への入り口が、裂けていつでも入れるようになったのです。それは、神と人間の交流がイエス様を通してできる様になったことを示しています。それも、人間の力で引き裂かれたのではなく、神ご自身が引き裂いたのです。恵みの道ができたことは、何と感謝なことでしょうか。

 この十字架の出来事は、まず百人隊長に影響を与えました。「ほんとうに、この人は正しい人であった」とは、神を「父よ」と呼ぶにふさわしい、正しい人だったという思いでした。また、群衆が「胸をたたきながら帰って行った」姿は、犯罪人の処刑を見に来ていた人たちが、イエス様の謙虚で愛に満ちた姿を見て、心を動かされ、悲しんだ姿です。この日の悲しみが、ペンテコステの回心につながったのかもしれません。さらに、アリマタヤのヨセフも、議員の一人として、イエス様の裁判には反対の気持ちをもちながら引き下がっていましたが、十字架のイエス様の姿とことばから、その遺体を自分の墓に納めるために総督に願い出る勇気を与えられたのでした。

 ペテロは、「神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい」と勧めています(Ⅰペテロ4:19)。私たちも、御手にゆだねる信仰に生きていきましょう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ