礼拝メモ 1月3日

聖書 ネヘミヤ記8章1節-12節

 2021年が始まりました。今年のお言葉を紹介します。それは、「主を喜ぶことは、あなたがたの力だ」という、このネヘミヤ記の8章10節の言葉です。

 この言葉の背景を見ておきます。まず、2節にある「第七の月の一日」ですが、これはユダヤの新年を示す日にちです。ですから、10節の言葉は新年にふさわしい言葉といって良いでしょう。

 次に、1節にある「主がイスラエルに命じたモーセの律法の書」ですが、これはいわゆるモーセの五書と呼ばれるものを指しています。聖書の初めの五つの書のことです。当時は、これこそ聖書だったのです。

 第三に、エズラが朗読し、何人かの人々がそれを解説したことが書かれています。それも、「木の壇の上に立っ」て、皆が良く聞こえるように、あるいは、皆を良く見渡せるように、足場を高くして朗読し、説明したのです。(この壇は、現在の講壇にあたるものです)

 その聖書の説明を聞いた人たちは、悲しみ、泣いたのでした。それは、律法の書の内容を知って、自分たちの生活の中の至らなかったことに気づき、神のみこころに届かなかったことを悲しみ、泣いたのです。(Ⅱコリント7:9−10を参照)

 以上が10節の背景です。それでは、10節には何が書かれているのでしょうか。まず、「ごちそう」が語られています。この言葉は、原語では「脂肪の多い肉」という表現です。本来、脂肪は貴重なものですから神に献げられるのです。しかし、ここでは脂肪が多い肉なので、上等の肉、贅沢な食物を表しています。それを「ごちそう」と訳したのです。神の祝福にあずかるように、この食物によって元気になることが勧められていたのです。それも、仲間で分け合うように勧め、共同体の気配りが記されています。

 次に書かれているのは、悲しんではならないということですが、これは、悔い改めから救いに至るように、神の慈しみに信頼することを勧めたものです。

 三つ目は、「主を喜ぶ」ことです。この勧めの中には、何と言っても救いを喜ぶことがあります。罪を持ったままなら地獄のさばきにあうところを、罪を赦されている幸いを喜びなさいと言っているのです。

 さらに、いのちを与えられていることを喜びなさい、という意味があります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」(詩篇127:1)とあるように、私たちが生きているのは、神の助けがあるからです。主がコロナウイルスから守ってくださらなければ、どんなに予防してもむなしいのです。私たちは支えられている、守られている、そのことを感謝し、喜ぶのです。

 最後に、「主を喜ぶ」とは、主ご自身を喜ぶことです。主のくださる恵みを喜ぶだけでなく、主ご自身との交わりによって喜ぶのです。それは、主を慕い求めることにつながります。「私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています」と歌った詩篇作者のように(詩篇42:1)、主を慕い、主を愛することです。そして、その主を知るために、み言葉が与えられているのです。「私は大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます」(詩篇119:162)。「あなたのみおしえを愛する者には、豊かな平安があり、つまずきがありません」(同165節)。主が豊かに語ってくださるように祈って聖書を読みましょう。

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