礼拝メモ 12月6日
聖書 イザヤ書9章1節-7節
イザヤ書は、旧約聖書の福音書と言われるほど救い主の姿を彷彿とさせる預言書です。イスラエル人の罪に対して、さばきとともに神の救いを語る前半から、今朝のおことばを思い巡らします。
1節を読むと、新約聖書に親しんでいる方は、どこかに出て来たと思い出される箇所です(どこだったか分かるとなお良いのですが)。主イエス様が伝道の拠点としてカペナウムを選ばれたことに関して、この1節と2節が引用されています(マタイ4章15-16節)。救い主がガリラヤ地方を巡回されることが予想されるお言葉です。そして、イエス様はガリラヤ伝道をなさったのです。
そして、2節の「大きな光」とは救い主を表すことばです。この方は慰めと希望を与えてくださる方です。主イエス様は、さまざまな生活苦に悩まされていた人たちに、癒しと将来への希望を与えました。
3節には、前の節のもたらす結果として、喜びが記されています。4節には救いの内容が「打ち砕く」と表現されています。「くびき」や「杖」、「むち」は、人間を痛める罪のもたらす苦痛を暗示しています。(当時の人たちにとっては、アッシリアやバビロンの圧政からの解放と受け止められたでしょう)。
5節には、平和の到来が暗示されています。戦いに用いられた物が廃棄されることが預言されています。
6節と7節は、文字通り救い主の預言となっています。この「ひろりのみどりご」こそ、ベツレヘムで誕生した救い主イエス・キリスト様を表しています。7章の14節に預言されている「インマヌエル」なる救い主が、ここでは四つの名前をいただく方として紹介されています。
「不思議な助言者」(人間の目には不思議と思われる(超自然的な)恵みの支配者)、「力ある神」、「永遠の父」(永遠のいのちをもたらす方)、「平和の君」である方、このような名で呼ばれる方を、救い主として送ってくださるとの預言であり、約束です。それが救い主であり、私たちの主イエス・キリストであります。
これらの預言が実現するために、「万軍の主の熱心」が働いていると、イザヤは語ります。しかし、この預言は主イエスの誕生より700年も前になされました。そこに、私たち人間の時間感覚と神の時間感覚のずれがあるように感じるのです。
ペテロの手紙第二には、次のように記されています。「主の前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ3章8-9節)。ここに、神様の知恵があります。
救い主が誕生し、福音が伝えられるための備えがなされなければなりませんでした。ローマ帝国は全国に道路を整備しました。そして共通の言語としてギリシア語が使われていました。約束の救い主を送るために、何年もかかって準備をされた神様の配慮は尊いものです。コロナ禍の私たちも、このような深い知恵と力をもって治めておられる主イエス・キリストの父なる神に信頼し、信仰生活を続けていきましょう。