礼拝メモ 11月29日

聖書 ヨハネの福音書19章28節-37節

 十字架の上で、苦しい息の中から語られたイエス様の言葉は、七つありました。今朝はその中の五番目のことばを思い巡らします。とても短いことばです。

 「わたしは渇く」です。

 イエス様はサマリヤのヤコブの井戸辺で、疲れて座っている時、サマリヤの女性が水汲みにやって来て、井戸から水を汲みます。そこでイエス様は「わたしに水を飲ませてください」とお願いをします。のどが渇いていたのです。

 心理学の授業で、お腹がすいた苦しみよりのどの渇きの苦しみのほうが強い、と教えられました。水の豊かな日本と違い、ユダヤでは渇きは大きな問題なのです。しかも、イエス様は十字架の上で強い日に当てられ、出血もあり、脱水症状を呈していたと思われます。

 ヨハネは、この言葉の前に、こう書いています。「それからイエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために」と。イエス様が「渇く」と仰った時、心に旧約聖書が思い描かれていたのです。詩篇69篇21節は、どの福音書にも引用されています。「私が渇いたときには酢を飲ませました」ということは、ヨハネが書いている「酸いぶどう酒」にあたります。その他、詩篇22篇16節なども、救い主の渇きを預言したものと考えられます。

 しかし、詩篇143篇6-7節をみますと、前週に学んだイエス様の見捨てられる苦しみとともに渇きを描いているように見えます。「私のたましいは乾ききった地のようにあなたを慕います」という言葉には、単に肉体的渇きではない、霊的な渇きが描かれているようです。その意味では、詩篇42篇の1節、2節は、霊的な渇きを描いて、讃美歌にもなっているほどです。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように/神よ/私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは/神を/生ける神を求めて/渇いています。」(他に63篇1節も参照)

 イエス様が十字架の上で「わたしは渇く」と言われたことは、肉体の渇きだけでなく、たましいの渇きをも語っていたのです。

 それは、十字架の上での苦しみでした。旧約聖書を見ると、神のさばきとして渇くことが預言されています。すると、イエス様は十字架の上で私たちの身代わりにさばかれ、水に渇くだけでなく神に渇くたましいの苦しみをも味わっていたのです。そして、それも完了するのです(30節を参照)。それは、私たちをいのちの水に招く福音ができあがったことを示しています。イザヤは、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るが良い。金のない者も」と招いていました(55章1節)。そこには、「金を払わないで,代価を払わないで」と記されています。ヨハネの黙示録は、その最後の章で、「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで飲みなさい」と招いています(22章17節)。

 この無代価の招きは、イエス様が十字架で「渇く」と言われたので、代価が払われている故の招きなのです。私たちの身代わりに、渇きの苦しみを受けてくださったイエス様、私たちが神様を慕い求めて生きる者となるために苦しんでくださり、ありがとうございます。大きな感謝をもって、渇くことのないいのちの水をいただける幸いをほめたたえます。

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