礼拝メモ 10月11日
聖書 ルカの福音書23章32節-49節
使徒信条で第二項を告白するとき、「十字架につけられ」と短く告白します。その背後にあるさまざまな出来事を思い起こしながら告白します。そのために、十字架上のイエス様の言葉に注目します。まず、このルカの福音書23章から始めます。
「どくろ」と呼ばれている場所で、イエス様は十字架につけられました。十字架とはローマの死刑の方法ですが、あまりに残酷なのでローマ人は着けられることがありませんでした。五寸くぎほどの釘で両手を、そして両足を磔にされ、裸のからだは日に照らされて脱水状態になる、痛みと恥との死刑です。
そのような十字架につけられた主イエスが、まず口を開いたのは、赦しの祈りでした。「父よ、彼らの罪をお赦しください。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
ふつうの犯罪人が十字架につけられると、反論したり、非難したり、泣き叫んだりしそうです。ある人は、「『勘弁してください。私が悪かった。今、十字架から降ろしてください』と叫び始める」と言っています。イエス様の言葉には、そういった響きは全然ありません。かえって、「お赦しください」と祈っているのです。イエス様の心には罪がないのです。
ここで祈っている「彼ら」とはだれなのでしょうか。この十字架の周りには、ローマ兵がいます。イエス様の着物を分け合ったり(34節)、「嘲った」りしています(37節)。民衆は「立って眺めて」います(35節)。議員たちはあざ笑いました(35節)。他の福音書では、同時につけられた犯罪人たちもあざ笑ったと書かれています。これらの人たちのために祈られたのです。
そもそも祈りとは、神様との会話です。主イエス様は父なる神様との交わりの中で、この祈りをささげているのです。それも受け入れられることを信じて祈っているのです。人の罪を赦すことは、神のみこころなのです。そうでなければ、御子を遣わされることはなかったでしょう。ですから、この祈りには、神様ご自身の強い意志が入っているのです。御子イエス様の苦しみは、身代わりの苦しみでした。
イエス様は、祈りの中で「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言っています。確かに、周りにいた人たちは、自分たちが救い主を殺しているとは知らなかったのです。誤解があり、嫉妬があり、単なる服従がありましたが、自分たちのしていることの重大性を認識していませんでした。
使徒パウロは、クリスチャンを迫害し、牢に入れ、ステパノの死刑を指導しました。そのパウロが赦されて、使徒となって働いた中で、彼の心に伝えられた御心は、こうでした。「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました」(Ⅰテモテ1章13節)
神様は、先に赦しを用意しているのです。ですから、真実に悔い改めるなら、赦されるのです。神は自分に罰を与えるのではないかと、恐れることはないのです。赦された者は、ステパノが息を引き取る直前に「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈ったように、イエス様のように祈ることができるようになります。赦された平安と自由な心で、怒りから解放されるのです。s