礼拝メモ 10月4日
聖書 ヨハネの福音書19章1節-16節
使徒信条の第二項はイエス様の出来事が告白されています。「我はそのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず」のあと、主の生涯の告白になりますが、誕生に続いてすぐに「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け」となります。そのため、いろいろな意見が出ています。
イエス様が苦しみを受けたのは、ピラトの時だけではない、という意見、イエス様の人生そのものが苦しみだったのだ、という意見。たとえば、誕生のとき、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」こと(ルカ2:7)、「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」こと(ヨハネ1:11)など。
しかし、使徒信条では、「ポンティオ・ピラトのもと」で苦しめられたイエス様を告白します。その意味は何でしょうか。
まず、ポンティオ・ピラトは、歴史上の人物であることで、このことから、主イエス様の苦しみは架空のことではなく、事実として起こったことであった、という意味が読み取れます。
ピラトはローマ総督です。責任ある人物です。その人が公の裁判で、イエス様を死刑に渡したのです。彼は、ローマ法の執行者です。そして、彼は、裁判の判決を曲げたのです。
この福音書には、三度、ピラトがイエス様の無罪を認めたことばが残されています。18章38節、「私はあの人に何の罪も認めない」。19章4節、「私にはあの人に何の罪も見出せない」。19章6節、「私にはこの人に罪を見出せない」。それにもかかわらず、ピラトはイエス様を十字架につけるためにユダヤ人に引き渡したのです。なぜでしょうか。
この12節にユダヤ人のことばが残されています。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いているのです。」この言葉に、ピラトは恐れを感じたのです。自分を任命した皇帝が自分を無き者にするのではないか、という恐れです。保身、自分の地位を失う恐れ、自己防衛——そして、法の番人であるべき人が、法の名によって不法を犯したのです。彼は自分の判決によって、法治国家をその反対のものに転落させたのです。
ピラトはローマ人、異邦人です。彼のしたことは、全世界の異邦人の姿を写しています。私たちの姿でもあります。この不法の判決の中で、主イエス様はしっかりとご自身の使命を自覚しておられました。そうです、主イエス様は、ご自分から十字架に向かわれたのです。「イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた」(5節)と。周りの人に促されたにしても、イエス様は自分から出て来られたのです。イエス様は口を開かず、有罪判決に対しても反抗しませんでした。
主イエス様は、私たちの罪を負うために十字架に向かわれたのです。全人類の罪の重さは、どんなものだったのでしょうか。「それは、何物をも砕いてしまい、何物をもぺしゃんこにつぶしてしまい、どこまでも滅びの中に落としてしまう重さ」であったのです(朝比奈寛師)。『キリストは自ら十字架の上で私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。…その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた』(Ⅰペテロ2:24)。主よ、感謝します。