礼拝メモ 9月27日
聖書 ヨハネの福音書14章1節-14節
ヨハネは、ナザレのイエスこそ神の御子、キリストであると伝えています。この部分は、最後の晩餐を終わり、これからのことを話すイエスと、それを聞いてとまどう弟子たちの姿が描かれています。
1節の「あなたがたは心を騒がせてはなりません」の背後には、弟子たちの不安な心を読み取っていたイエス様の思いがあります。イエス様が言った「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」という言葉は(13:34)、弟子たちに不安を沸き立たせていたのです。そればかりでなく、弟子の筆頭になるペテロが、三度も主を拒むとの予告は、弟子たちみんなの不安をあおるものでした。
イエス様は、すぐに、慰めと希望のメッセージを語り出します。「わたしの父の家には住む所がたくさんあります」と。そこで、また一緒になれることを約束したのです。「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」と。
しかし、弟子たちの心には、まだ腑に落ちないものがありました。それで、質問が飛び出すのです。まずトマスです。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と問います。その時、主イエスの口から出た言葉は、有名な言葉となりました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(6節)
このように言うことができる人があるでしょうか。まさに主イエスこそ、神の御子です。イエス様が言いたかったことは、わたしについて来なさい。そうすれば、父のみもとに行けます、ということです。それも、絶対に間違わないで行けます、と言うことです。「何の心配もいらないよ。わたしについて来なさい。わたしを信じていなさい。わたしに任せておきなさい。」
次に口を開いたのは、ピリポでした。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(8節)これに対して、イエス様は、ご自身が父と一体であることを示します。ピリポは、イザヤの見たような幻を見たかったのかもしれません。しかし、イエス様はその必要はないと言うのです。イエス様を見れば、父が見えてくるはずと言われました。
イエス様は貧しい家庭に生まれて、育たれました。そして、御父はその家庭を祝福されました。私たちの家庭を、神様は祝福してくださることを見ることができます。イエス様は大工として働きました。働くことは、エデンの園で命じられたことですが、罪のために苦しいものとなりました。しかし、イエス様が働かれたことを、御父は祝されたのです。労働はその意味で尊いものとなりました。
イエス様は試みに会いました。苦しみや悲しみを経験されました。ラザロの墓で涙を流されました。それは、御父が泣いておられたのと同じです。イエス様は十字架につけられました。それは、いのちを引き裂くほどの愛の現れでした。
この方を信じ、拠り頼み、そのいのちをいただくことによって、私たちは祈ることができるのです。それは、御子のみわざを拡大するための祈りです。全世界に出て行って、福音を伝えるための祈りです。その祈りに答えてくださると約束されています。主のしもべとなって救い主を紹介していきましょう。