礼拝メモ 9月20日
聖書 ルカの福音書10章25節-37節
ルカは、弱い人や女性の味方であるイエス様を描いています。また、祈りについても多くを記しています。イエス様の祈る姿を6回も記しています。イエス様が人間であった事を示しています。
そんな中で、今日の箇所は、良いサマリヤ人として知られる箇所です。このたとえ話しは、一人の律法の専門家の質問から生まれました。彼は、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と質問したのです。イエス様に質問することはすばらしいことだと思いますが、この人の場合は、少し問題があります。
まず、「試みようとして」と書かれていることです。自分は前から律法に食らいついてきたというプライドがあるのでしょうか。まだ若いナザレのイエスをテストして試してみようとしたのでしょう。それと、「何をしたら」という言葉には、自分の行いを手柄にして恵みを引き出そうという心が隠れています。永遠のいのちは、主にお頼りする人に与えられる賜物、プレゼントです。
さて、イエス様は苦情も言わずに、この人と対話をしていきます。この人は、申命記とレビ記の中からみ言葉を引用しています。それに対して、イエス様は「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と答えます。正しい答えを実行するとなると、一つ気になることがありました。それが、「私の隣人とはだれですか」という質問になります。この人にとっての隣人は、同胞のユダヤ人でした。そこで、イエス様は、良いサマリヤ人のたとえを話します。
たとえ話の最後に、登場してきた祭司とレビ人とサマリヤ人のうちで、「強盗に襲われた人の隣人になった」のはだれかと、イエス様は質問します。この人の答えは、「その人にあわれみ深い行いをした人」と答えます。サマリヤ人ですと、答えたくなかったのでしょう。そこにこの人の偏見が潜んでいたのです。しかし、イエス様は、それを責めず、『あなたも行って、同じようにしなさい』と言います。
この記事はこれで終わっています。この人がサマリヤ人のように行ったとも、そうできない自分に目が覚めたとも、書かれていません。残念なことです。
さて、このサマリヤ人のことをよく見てみましょう。まず気づくのは、この人のあわれみです。内臓が揺り動かされるようなあわれみです。そして、徹底した介抱が目に入ります。オリーブ油とぶどう酒、包帯、家畜に乗せること、宿屋での世話、2デナリを取り出したこと、不足は帰りに払いますという約束までしたのです。なんとか、この怪我をした人を助けたいと思っているのが伝わってきます。
このような物語を読んで、私たちは、反省させられます。この人のようにあわれみを感じるだろうか。そして、この人のように犠牲を払うことができるだろうか。私たちは、ここで、この律法の専門家のように、退いてしまわないで、イエス様に近づくことができないだろうか。そう考えると、イエス様こそ、このサマリヤ人の模範であることに気づきます。
天から下り、十字架について、私たちを救おうとするイエス様の愛の激しさが迫ってきます。イエス様、私たちにもあなたの愛を注いでください。