礼拝メモ 9月6日

聖書 マタイの福音書5章1節-12節

 使徒信条の第二項では、主イエスのことがまとめられています。しかし、その中には、主イエスの教えやみ業(わざ)は入っていません。使徒信条をまとめる段階で、その必要がなかったのでしょう。しかし、私たちにしてみれば、少しさびしいので、この際、イエス様の教えとみ業(わざ)を見てみましょう。

 聖書は、マタイの福音書5章です。ここは、山上の説教と言われる、イエス様の教えの中でも最も有名な箇所です。この箇所について話す前に、マタイの福音書の特徴を調べてみましょう。いろいろ上げる人がありますが、今朝は二点だけ上げます。

 まず第一は、この福音書には旧約聖書の引用が多いということです。それは、旧約聖書に精通していたユダヤ人に、ナザレのイエスこそ約束された救い主であることを知ってほしいからなのです。その意味では、マタイの福音書はユダヤ人に向けて書かれた福音書と言えます。

 もう一つの特徴は、この福音書にはまとめられたものがある、と言うことです。この5章から7章まで、山上の説教も、いろいろな場面で語られたものをまとめたもののように見えます。10章には、弟子たちを派遣するための説教がまとめられ、13章には、たとえ話がまとめられています。18章は少し感じが違いますが、弟子たちのための教えがまとめられ、24章から25章は、主の再臨についての話しがまとめられています。それぞれの終わりの部分に、「終わる」という言葉が入っていますから、確認してみてください。

 さて、イエス様の教えの中でも最も有名な山上の説教ですが、その教えは深く、よく考えないといけないものですが、それでありながら、実際的でもあります。

 この山上の説教は、「幸いです」で始まっています。それが8回繰り返されています。この言葉は、祝福を感じさせます。バプテスマのヨハネが開口一番「まむしの子孫たち」と言ったのとは、全然違う雰囲気を持っています。幸いですとは、祝福への招きであり、優しさと思いやりに満ちた言葉です。

 「心の貧しい者」とは、自分のうちに頼りになるものがない貧しさに悲しみ、悩み、苦しんでいる人のことです。自分の貧しさ、弱さ、失敗や挫折、罪深さ、もろさを知って、ただ神に頼る以外にない人のことです。そういう人こそ、「天の御国」の住民として受け入れられることを語っているのです。後にイエス様が語った言葉に通じます。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(11章28節)。イエス様は、幸いへと招き、祝福へと招かれたのです。そして、それは、今も同じです。私たちも招かれているのです。

 反対に、心が貧しくない人とは、自分はだれにも頼らずに生きていると、肩を張って生きている人のことです。そういう人にも、イエス様は、心の目を開いて自分を見直し、心の貧しさを求めて、「わたしのもとに来なさい」と招いています。

このように、イエス様は、人間の真の姿を示し、教えてくれる方です。真理を教える預言者と言ってよいでしょう。私たちのあるべき姿を示し、行く先を示し、真理の中を歩むことを教えてくださる方です。信頼して生きましょう。

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