礼拝メモ 8月30日
聖書 ルカの福音書1章39節-56節
タイトル 「マリアから生まれた主」
今朝は、使徒信条の第二項の「主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ」に注目してみましょう。
神の御子が人間となられるためにマリアの身体を借りて誕生したのですが、このことはいろいろ意味のあることです。神学的には、神性の中に人間性が取り入れられたこと、と言われます。人間の尊厳は、このことからも非常に高められたと言ってよいと思います。しかも、それが、人を救うためであったとは、深い、広大な愛の現れだと思います。ヘブル人への手紙のことばを引用します。「あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たち(つまり人間)と同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです」(2章17節)。
さて、今朝のルカの記事は、マリアのエリサベツ訪問が記されています。この二人の名前でわかることは、このイエスの出来事は、歴史上の出来事であったと言うことです。フィクションではないと言うことです。ちなみに、2章1節には「皇帝アウグストゥス」が、3章1節には「皇帝ティベリウス」が、そして「ポンティオ・ピラト」が書かれています。皆、歴史上の人物たちです。主イエスは、まことの神が、まことの人として、生まれた方なのです。
さて、マリアは、どんな人物だったのでしょうか。まず天使ガブリエルの訪問を受けたマリアの決意を見てみましょう。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(38節)。ここからは、マリアの従順な信仰と謙遜な姿が浮かび上がってきます。
従順と言っても、盲目的な服従ではありません。マリアはイエスを胎に宿してから、いいなずけのヨセフに疑われ、村の人たちから白い目で見られ、何と言っても十字架につけられるイエスを見なければならなかったのです。マリアの信仰を貫く戦いは大きかったのです。でも、マリアは、従順で忠実でした。ペンテコステの日に、集まった人たちの中にマリアは座を占めていました。
エリサベツに会った時、他の人には理解してもらえない自分の経験を分かってくれる人に会ったのです。そこで生まれたのが、マグニフィカートと言われる賛美であり歌です。
このマリアにとって神様がどのような方と受け止められていたかが、この賛美の中に現れています。「力ある方」、聖なる方(49節)、あわれみある方(50、54、55節)でした。そして、この賛美には、同じ女性の賛美にかようものがありました(Ⅰサムエル2章1-10節)。マリアは聖書に親しんでいた人物だったのです。
48節にはこうあります。「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう」と。確かにマリアは幸いな人です。しかし、彼女は「救い主」を必要とする人間でした。47節には、「私の霊は私の救い主である神をたたえます」と記されています。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ」ないと言われます(ローマ3章23節)。マリアほどのすばらしい人にも罪があったのです。凡人である私たちに罪がないわけがありません。神を信じ、頼る人生へと、回れ右をする人は、豊かな赦しと平安をいただけるのです。