礼拝メモ 8月23日
聖書 ルカの福音書1章26節-38節
使徒信条の第二項の出だし、「我は、その独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」に続く、「主は聖霊によりてやどり」に注目してみましょう。
ルカの福音書1章には、三つの訪問が書かれています。第一は、天使のガブリエルが神殿のザカリヤを訪問したことです。第二は、同じガブリエルがナザレの村にいたマリアを訪問したことです。第三は、そのマリアがユダの山地のエリサベツを訪問したことです。今朝は第二の訪問を取り上げます。
ガブリエルは、恵みがマリアにあると告げました(28、30節)。これから起こることは恵みのみ業であることを示したのです。そのみ業とは、マリアが身ごもるということです。マリアは婚約者はいても、まだ結婚していないのに、どうして、と不思議に思います(34節)。
それに答えたガブリエルの言葉は、重要です。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(35節)マリアは人間の介在なしに、あるいは男子の力を受けずに、聖霊が創造なさるので、子を宿すというのです。
天地創造の時にも聖霊は働いていました。その力で、マリアの胎に主の身体を創造するのです。それによって、主は人となることができるのです。その結果、「生まれる子は聖なる者」となります。人間の罪の負債を負わないで生まれる方となり、罪のないものだけができる人間の贖いの業がなされるのです。それは、十字架という形をとりますが、それに向かって行く主なる方が生まれるのです。
人間は自分から誕生を決めることはできません。しかし、この主は、ご自分から進んで人間になり、人間の贖いのために犠牲になることを選ばれた方なのです。それが、「主は聖霊によりてやどり」という言葉に込められた恵みです。
最初の人アダムは、土地のちりから造られました。その時の業は、驚くべきことです。コリント人への手紙の15章は、復活の章と言われますが、その中にこういう言葉が現れます。「最初の人アダム」と『最後のアダム』、「第一の人」と『第二の人』です(45節、47節)。ここで主イエスを最後のアダムと言い、第二の人と言っています。まさに、「主は聖霊によりてやどり」、生まれた方であることを覚えさせてくれます。特別に造られたアダム、そして特別に生まれる主イエスがここに現れています。
恵みのみ業として、人間がどんな良いことをしたかとは関係なく、神ご自身が計画し、実行されたみ業です。そして、生まれる方は、主なる神でありながら、完全に人間として生きるのです。それは、人間が何を糧とし、何に悩み、何を喜び、何を悩む者かを知ることができる状態なのです。人間をもう一度、神様との交わりに回復するために、この聖なる方が必要だったです。人を罪から救い、神の友として交わりを持つことができる者に作り変えるために、聖霊によって宿り、聖なる者として生まれてくださったイエス様に、感謝し、一層親しんでいきましょう。
主なる方は、ご自分から人の世界に入り、私たちに救いの道を用意してくださったのです。大胆な恵みであり、大きな愛を表すみ業を知って、私たちは感謝をもって従ってまいりましょう。