礼拝メモ 8月2日

聖書 ヨハネの福音書1章9節-18節

 使徒信条の二番目の項目に移ります。そこには、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」とあります。「その独り子」とは、御父の「独り子」です。ヨハネの福音書の1章14節と18節に、「ひとり子」という表現があります。3章16節については、前週にお話ししました。ヨハネの福音書では、この三カ所に「ひとり子」という表現があります。

 この「ひとり子」という句は、「一人っ子」という意味でも使いますが、ここでは別の意味で使われています。独特の、他に類をみないひとり子、という意味です。主イエス様の独特さは、その性質にあります。ヨハネ5章18節には、「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされた」と書かれています。つまり、御子イエス様は、御父と同じ性質、神性をもっておられる方です。それゆえ、「わたしと父とは一つです」(10:30)とか、「わたしを見た人は父を見たのです」(14:9)と言うことができたのです。

 なぜ一人の神の中に父と子がおられるのかは、人間には分かりかねることです。でも、聖書はそれを示しています。これは、神ご自身の豊かさの現れと見ることができるでしょう。神学の世界では、御子は御父から永遠に産出された方と言われます。

 このような考え方が生まれたのは、一つには聖書の記述の理解のためです。また、異端や異教との接点で争われた結果でもあります。特にグノーシス主義の教えに対してどう答えるかを考えた結果と思われます。紀元325年のニカイアで会議の結果生まれたニカイア信条では、次のようになっています。「主は神のひとり子、万世の先にその父より出でたるもの、神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神、造られずして生まれ、御父と本質を一つにし、万物は彼によりて造られたり。」「造られずして生まれ」とは、被造物ではなく、造り主であることを示します。尊敬と礼拝を受けるにふさわしい方です。

 さて、唯一の神の中に父と子がおられて、愛の交わりを保っておられます。このことを土台にして、クリスチャンは愛に生きることができるのです。

 18節でこのひとり子が御父を「解き明かす」と書かれています。この言葉は、知らせる、詳しく語るという意味があります。「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」とあります(14:6)。

 この御方が私たちのためにいのちを捨ててくださった愛を、私たちは人生の土台にしなければなりません。パウロは、「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」と語っています(ガラテヤ2:20)。

 また、パウロはこうも言っています。「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された方が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」(ローマ8:32)。それほどまでに祝福することのできる方を信頼する者に、答えてくださらないことがありましょうか。この御子は、弱い者のかたわらに立ち、耳を傾け、祈りに答えてくださる方です。「わたしだ。恐れることはない」と優しく語ってくださるのです。

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