礼拝メモ 5月17日

聖書 イザヤ書53章1節-12節

 イザヤ書の後半の中で一番重要な箇所が、この53章です。ここには「主のしもべ」の苦しむ姿が描かれています。

 使徒の働き8章に、エチオピアのカンダケの高官がエルサレムの礼拝から帰る途中で、馬車の中で聖書を読んでいたと、あります。それが、このイザヤ書の53章でした。「ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた」結果、この高官はバプテスマを受け、「喜びながら帰って行った」のでした(使徒8:26-40)。

 このイザヤ書53章には、イエス様のことが預言されています。そこに私たちが受け止める恵みがいっぱいあるように思うのです。それを捜してみましょう。

 本来、52章の13節から、この預言の段落は始まります。まず、そこから見てみます。52章13節は、主のしもべが『栄える』と結論的に示します。それは、主のしもべの生涯の最終結果を預言しています。彼は高められて、「すべての名にまさる名」が与えられるのです(ピリピ2:9)。しかし、主のしもべの姿からは到底予想もできないことで、人間の目には驚きなのです。このギャップが53章にも続いています。

 53章1-3節には、誕生にまつわる預言もあります。1節は、主のしもべのメッセージの特異性のために人々は信じられないこと、しかし、主が心に語ってくださるなら、主の御力を知ることができると暗示します。2節の「ひこばえのように」とは思いがけないところから出現することを、砂漠の地から出るとは、人の住む場所としては辺鄙で将来性もない場所から主のしもべである救い主は現れるのです。事実、ベツレヘムもナザレも、そんな所です(ヨハネ1:46を参照)。それに、その方は、外見は「輝き」も「見栄え」もない普通の人なのです。

 この主のしもべは、「蔑まれ、人々からのけ者にされ」るのです。「人が顔を背けるほど蔑まれ」る存在なのです。このように、「悲しみの人」つまり痛みを知る人であり、ツァラアトの苦しみ(病)を知っていた人です。

 4節から、重要な言葉が現れます。それは、主のしもべの苦しみは、私たち人間の痛み、病を担ったもので、人間が勘違いをして「神に罰せられ、打たれ、苦しめられた」人だと誤解をしたのです。「私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた」

 もう一つ誤解があります。それは、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」とある恵みです。主のしもべの苦しみは、ご自分の罪のためではなく身代わりの罰だったのです。そして、「自分勝手な道に向かって行った」私たち人間のために、平安を勝ち取るためでした。何という恵みでしょうか。7節以下には、主の沈黙と死、そして埋葬が預言されています。

 10節からは、この主のしもべが死を越えてよみがえることが暗示されています。「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」そして、「父よ、彼らをお赦しください」と十字架の上で取りなされた主のしもべイエス様は、今、私たちのためにとりなしをしてくださっています。この愛のお方にお頼りしていきましょう。

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