礼拝メモ 6月21日

聖書 コリント人への手紙第二 4章7節〜15節

 使徒パウロは、人間のことを「土の器」と言います。この表現には、人間の創造の時のことが暗示されています。創世記2章7節には、こうあります。『神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった』と。人間は、土の器であるとともに、神の息が吹き込まれているのです。肉体とたましいとがともにあって人間なのです。ギリシア人は、たましいこそ人間の本質であるとして、肉体の復活の意味を捕らえられませんでした。反対に、肉体だけが人間であるとする、唯物論的考え方も、聖書は認めません。人間はなんと真理を離れやすいことでしょう。神から独立しようとする罪の影響の大きいこと。しかし、神はその人間を救い、この世界を治める仲間にしようとしているのです。

 イザヤ書64章8節には、こうあります。『しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。』土の器である私たちは、御手のわざによる傑作品なのです。行き届いた配慮のもとに造られた私たちの体を、大事にしなければなりません。たとえば、呼吸と食物の区別を、私たちは意識せずにしています。気道と食道の区別をしながら食事をする人はないでしょう。腎臓の機能も、人間が作った人工透析の機械をはるかに上回っているのです。

 エレミヤ書18章には、イザヤ書と同じようなたとえで、陶器師と粘土が書かれています。そこには、「主の手の中にある」と書かれています(6節)。私たちの体を主の御手にゆだねることの大切さを教えています。「頑なな悪い心」を捨てることが大事です。愛に富む神の御手の中に留まることは、折あるごとに意識したいことです。

 パウロは、「宝」を土の器に入れているのがクリスチャンであると語っています。この「宝」とは、主を知る知識であり、主との交わりです。イエス様をとおして神様の愛が自分に注がれている事実を、しっかりと意識して生きて行くとき、「四方八方から苦しめられ」「途方に暮れる」ことがあっても、行き詰まることはないのです。それは、パウロの実体験から出たことばです。「ノックダウンされても、決してノックアウトされないで」、何度でも立ち上がる力が与えられるのです。生きているイエス様との交わりは、どんなに力強いことでしょうか。

 「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」という告白が、「宝」を土の器に入れている幸いから生まれたのです。使徒ヨハネの弟子であったポリュカルポスは、「私は八十六年間もキリスト様にお仕えしてきたが、ただの一度たりとも、キリスト様は私に対して不正を加えることはなかった。どうして、私が、私を救われた私の主を冒涜することができようか」と告白しました。

 土の器である私たちに、主は「宝」を与えて下さいました。主との交わりをもっと頻繁に、もっと深くして行きましょう。主イエス様を知ることは、豊かないのちに生きることです。イエス様から目を離さない歩みを築いていきましょう。

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