礼拝メモ 12月1日 クリスマスの序章⑴
聖書 ルカの福音書1章5節-25節
これは、「ヨハネ」という人物の誕生の記事です。この人は、人々に悔い改めのバプテスマ、つまり洗礼を授けていたので、バプテスマのヨハネと呼ばれています。御使いが現れて、ヨハネの誕生を告げられたと記されています。そのヨハネというのはどんな人物だったのでしょうか。
17節に「主に先立って歩みます」と書かれています。これは救い主の現れと働きの前に、ヨハネが人々に心の備えをする務めがあることを示しています。私たちのために救い主が生まれること、そのために心を定めることです。「父たちの心を子どもに向けさせる」とは、自分の心だけでなく、子どもたちの心にも主を慕い愛する思いをつちかうことです。親子の信頼関係が崩れていたら、救い主の前に立てるでしょうか。
ヨハネは「エリヤの霊と力」を持つ人として描かれています。旧約聖書のエリヤはバアル神の偶像教に対抗して戦った主の戦士となった預言者です。その霊と力がどれほどすぐれたものであったか、驚くばかりです。しかし、ヨハネは何も奇跡を行いませんでした。それなのに、荒野やヨルダン川まで人々を引きつける説教者でした。
14節には、ヨハネが父ザカリヤに「あふれるばかりの喜び」をもたらし、人々にも喜びとなることが記されています。ザカリヤにとって、年をとってから生まれる子、それも大人物になりそうな息子を喜ばずにいられるでしょうか。人々も、「燃えて輝くともしび」であるヨハネの「光の中で大いに喜び」をもらえるのです(ヨハネ5:35)。私たちの存在がほかの人の喜びとなることができますように。
さて、この短い記事から、私たちのための教訓はないでしょうか。
⑴ 品行方正なザカリヤとエリサベツの夫婦に、子どもがいなかったことは、人生は思うように何から何まで幸いであることはありえないことを教えられます。
⑵ 年をとると希望を抱くことがむずかしくなります。しかし、神様は新しい希望を与えてくださる方です。聖書を読んで、主に拠り頼んで行けば、年をとってからも希望が与えられます。安藤仲一先生が、「夕暮れ時に光がある」というみ言葉に励まされて世田谷中央教会を生み出したのも、その例です。
⑶ お祈りは思いがけない時に応えられることが分かります。ザカリヤはその点で失敗します。一時口がきけなくなります。主の語りかけに信仰をもって応えましょう。「いつでも祈るべきで、失望してはならない」のですし、「もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない」のです(ルカ18:1、ハバクク2:3)。天と地を創造した方が祈りを聞いておられるのです。主に信頼して祈って進みましょう。