礼拝メモ 10月20日 いのちに呑み込まれる時
聖書 コリント人への手紙第二 5章1節-10節
今朝は、召天者記念礼拝です。私たちの地上の生涯が終わると、パラダイスに引き上げられるのですが、人間の考えることは、全然別のことのようです。
エジプトのピラミッドには王がミイラになって納められていました。それは再生の希望のためでした。「死者の書」というものも残されています。それは再生への道筋を伝えるものでしたが、実際はそのとおりにはならなかったのです。
日本人も、生きている人は必ず死ぬのだから、今の世にいる間を楽しめばよい、という現世主義でした。しかし、戦乱が続き、疫病がはやると、死について考えるようになり、往生要集が出たり、ペストがはやったヨーロッパでも『メメントモリ』(死を想え)と教えたりするようになりました。
現在は、病院で死を迎えることが多くなりました。そのため、死が遠いものとなり、「生命感覚が希薄に」(平山正実)なってしまいました。日本人の心には、死後のいのちは明確ではないようです。ギリシア人は、人間は肉体の檻に閉じ込められた、たましいであるから、死をもって肉体の檻から解放され、たましいは永遠であると考えました。ただ、そのたましいがどこに行くのかははっきりしません。日本人が死んだら天国に行くと考えるようになったのは、このギリシア人の考え方が影響しているように思います。
それでは、聖書では、どのように人間の死を見ているのでしょうか。人間が造られた時、塵から造られた体にいのちの息を吹き込まれました。つまり、人間は肉体とたましいが一つになった存在なのです。死とは、肉体からたましいが離れることです。たましいはパラダイスに行きます。そこは天国の待合室のようなものです。復活の日、もう一度人間としての生きた存在になります。
パウロは、この章で、「地上の住まいである幕屋」と言っているのは、この肉体のことです。「人の手によらない永遠の住まい」とか「天から与えられる住まい」と言っているのは、復活の体、栄光の体(ピリピ3:21)のことです。
肉体にある間は「うめき」「重荷を負う」ことがあります。ですから、「むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよい」のです(8節)。それで、「死ぬべきもの(肉体)が、いのちによって呑み込まれる」復活の日を待ち望むのです。パウロは、その日を「切望していま」した(2節)。パウロは栄光のからだについて想像することがどこまで出来たのかは分かりませんが、大事なことは「主に喜ばれること」であると語っています(9節)。
そして、肉体をもって生きている間の生き方が「キリストのさばきの座の前」で評価されます。栄光の体をいただけるから何をしても良いのではなく、主に喜ばれる行いによって報いをいただけることを喜びとして、御霊に拠り頼みながら進んでいくことを心がけましょう。