礼拝メモ 9月15日 生きている主

聖書 ローマ人への手紙14章1節-12節

 この章は、信仰の強い人と弱い人の対比がなされています。そして、どちらの人にも、さばいたり蔑んだりしてはならないと命じられています。その理由は、主が生きておられるからです。主が生きておられるとは、主権は神ご自身にあるということです。

 1節、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」この「意見」ということばがこの章の問題の扱い方を示しています。ここで問題となるのは、信仰の確信の問題ではなく、どちらでもよい「意見」の問題です。

 その意見の中身が2節から取り上げられます。ここでは「食べる」物のことです。ある人は何でも食べます。ある人は「野菜」だけを食べる菜食主義です。でも、どちらの人も、感謝して食べるのです。差別したり、蔑んだり、非難したりする問題ではないのです。

 4節では「他人の」しもべ、と呼ばれています。これは、「主は、彼を立たせる」とあるように、神様のしもべなのです。ですから、そのしもべを非難したり蔑んだりするのは、神様に対する越権行為です。

 5節では「日」の問題です。ユダヤ人の祭りのことかローマの祭りのことかは、分かりません。しかし、その日を大事に守ろうとして、他の人をさばいていたのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、食べ物や日を守ることにこだわる人がいたのです。クリスチャンは自由にされたのだからと、日にこだわる彼らを蔑む人もいたのでしょう。

 パウロは、どちらにしても主のためにしているのなら受け入れなさいと、勧めます。意見の相違があっても、信仰は一つなのですから。パウロは7節から信仰の一致の中身を記します。「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

 さらに、10節では、意見の相違を非難や無視する(「見下す」のもとの意味)ことは、神のさばきに価すると語られます。「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受ける」のです(Ⅱコリント5:10)。天の御国に入れてもらえるとしても、このさばきの座で良い報いを受けられないような信仰生活を送るべきではないでしょう。

 「わたしは生きている——主のことば——。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する」というイザヤ書のことばが引用されています。神の主権の宣言です。主のものとなって、主のために生き、主のために死ぬことができる、献げきった者となることは、どんなに幸いなことでしょう。

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