礼拝メモ 8月25日 「仕返しの問題」
聖書 ローマ人への手紙12章17節-21節
先週は、迫害する者を祝福するようにという、イエス様の山上の説教と同じ趣旨のことばに耳を傾けました。主の愛に生かされている者の生き方を示されたのでした。今朝の箇所も同じような流れにあります。
17節「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。」ここには仕返しの問題が扱われています。仕返しをしないで、良いことを行いなさいと。
18節「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」仕返しをしないことも、良いことをすることも、この平和にかかっています。この言葉は、単に争いがないというものではなく、豊かないのちが満ちている状態を指しています。
19節「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。」これも偽りのない愛の実践の一部です。人間はすぐに仕返しをしたがる性質を持っています。しかし、自分のからだを神に献げ、聖霊の満たしをいただいた者にとっては、復讐する権利も主にゆだねて生きて行くのです。
この「復讐する」という言葉は、「罰する」とも訳せます。自分の正しさに立って相手を罰することになります。そこに自己中心な姿が垣間見えます。ですから、神にゆだねるのです。
「神の怒りにゆだねる」とあるように、自分の正しさに立って怒る感情に支配されてはいけないのです。「怒っても罪を犯してはいけません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません」(エペソ4:26)とあるように、怒りそのものは罪ではないのです。しかし、それを心に持ち続けていると悪に染まっていくのです。詩篇にも、「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ罪への道だ」とあります(詩篇37:1)。
19節の「神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます」と、強い言葉が書かれています。罪に対する怒りは神のもの、罰する権利は神のもの、だからゆだねなさい。
「主はそう言われます。」つまり、怒り続けることは、神の権威の範囲に入り込む越権行為になるのです。どんなに自分の言い分が正しくても、人を罰する資格はないのではないでしょうか。その権威をもっているのは、神様であり、イエス様なのです。自分のからだを献げたように、怒りをゆだねなさい。そこに平和があるのです。
20節、21節は、さらに積極的に出ることを勧めます。「あなたの敵が飢えているなら、食べさせ、渇いているなら飲ませよ」とあります。これは愛の実践の行為です。祝福を祈る心で、これができることがすばらしいことです。