礼拝メモ 8月18日 愛の実践

聖書 ローマ人への手紙12章9節-21節

 先週は、9節から13節までを簡単に学びました。今朝は、14節から考えていきましょう。そして、光をいただきたいと思います。

 「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって呪ってはいけません。」この言葉には、パウロの経験と主イエスの言葉が背後にあります。

 使徒パウロは、教会を迫害していた人です。ユダヤのクリスチャンを迫害しただけでなく、ダマスコのクリスチャンを縛るために旅をした人です。しかし、そのダマスコの近くで、主イエスの光に打たれ、倒れました。さらに主の言葉を聞いたのです。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と。

 十字架につけられて呪われたナザレのイエスが救い主であるはずがない、と考えて、パウロはクリスチャンを迫害したのです。しかし、天からの声は、イエスご自身が迫害されていると語りました。パウロは混乱し、自分の考えていた救い主のイメージを覆されたのです。そのとたん、彼はさばきの危機に会いました。救い主を迫害したのだったら、自分こそ呪われると思ったのです。

 しかし、主イエスは彼を呪いませんでした。かえって、彼に新しい心を与え、新しい使命を与えたのです。その経験を彼は後に語っています。「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました」(Ⅰテモテ1:13)。この驚くべきあわれみの経験が、パウロの言葉の背後にあります。

 また、主イエスが山上の説教で語られた言葉の中にも、このパウロの言葉に通じるものがあります。「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)。パウロはこの言葉を知っていたのでしょう。

 15節には、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」とあります。これは、迫害する者に祝福を祈る心で、(単に教会の人たちだけでなく)周りの人たちと心を合わせることを示しています。それが自然にできる心とは、聖霊によって古い罪を全く赦され、神の愛を心に注がれている人の心です。

 16節は、「思い上がる」ことを禁じています。「むしろ身分の低い人たちと交わりなさい」と勧めます。原文では、「身分」も「人たち」も書いてありません。原文は「低いものに一緒に運び去られるままになる」という意味に取れます。この「低いもの」を考えると、十字架につけられた主イエスの姿が浮かびます。イエス様こそ最も低くなられた方です。十字架につけられ,呪われ、人間扱いされませんでした。「自分を知恵のある者と考えてはいけません」は箴言3:5にある言葉と同一です。人と比べず、自分を誇らず、低くなられたイエス様を見つめつつ生きることを心したいものです。

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