礼拝メモ 7月21日 「奥義と頌栄」

聖書 ローマ人への手紙11章25節-33節

 ローマ人への手紙の11章を終わろうとしています。ここには、9章の始めにパウロが書いた、悲しみや痛みはなくなっています。そればかりでなく、神をたたえています。それは、9章から論じてきた問題に、パウロなりに納得ができたからでしょう。そして、いよいよ異邦人に伝道する使命を強く感じていたのだと思います。15章では、「イスパニヤに行く」という希望を表しているのは、そのためでしょう。

 それでは、この最後の段落を見てみましょう。まず25節に「奥義」という言葉が出て来ます。これは、神が明らかにして下さったので、今だれにでも分かるようになった真理のことです。ここでは、ユダヤ人が救われるのも、異邦人が救われるのも、主のあわれみにかかっているということです。「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです」(32節)。私たちも、主のあわれみのゆえに救われたのです。

 パウロは大きな神のご計画を知って、主を賛美し始めます。「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう」(33-34節)。

 パウロはいろいろな問題をかかえながら、ここで賛美に移っているのは、彼の信仰の現れです。確かに問題はあります。彼の家族はどうしていたのでしょうか。しかし、どんなに重い問題があっても、神を賛美し、頌栄をささげるパウロは、まさに信仰に生きていたのです。つらい時こそ歌えるのがクリスチャンなのではないでしょうか。神が神であってくださる意味を考えているのです。深いとは、測りがたいということです。パウロは、その深さの中に自分がいることを感じたのです。

 「すべてのものは神から発し、神によって成り、神に至るのです」と歌っています。自分の限界、小ささを、神の深さ、広さ、高さの中で理解したのです。

 アウグスティヌスは、三位一体論を書いていた時、夢を見ました。海辺の波打ち際で、砂に穴を掘って、小さな貝殻で水を掬(すく)っては穴に入れている小さな子どもを見たのです。そして、「ぼく、あの海の水をみな、掬(すく)い出すんだ」と言うのです。アウグスティヌスは、そんなことできないよ、と言うと、その子は輝いた顔で彼に言います。「お前は今、三位一体について、わたしについて書いているそうだ。お前の小さな頭脳、貝殻に似たその頭脳の力で」と。

 この話を知った時、私は蔦田総理が「椰子の実のような頭で考えても、たかが知れてる」と言って、人間の小ささを示し、高ぶることのないように戒めたことを思い出しました。

 私たちは小さい存在です。だからこそ、上にあるものを求め、上にあるものを思い、地上のことに心を奪われてはならないのです。課題の中で、主をほめたたえる者とならせていただきたい。主よ、なおあわれんでください。

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