礼拝メモ 7月14日 「接ぎ木のたとえ」

聖書 ローマ人への手紙11章16節-24節

 パウロの悩み、悲しみが解決されるために、聖書からいろいろと考えられることを記してきました。基本は信仰です。そして、ここに来て、たとえになります。

 16節のことばの前半は、解釈が難しいのです。初穂は神殿に感謝の供え物となるのです。そして、その粉からドーナツ型のパンを作り、神殿に供えます。パウロがどちらもユダヤ人を指して語っているのでしょうが、意味が取りにくいのです。

 後半の「根」と「枝」のたとえはユダヤ人の先祖とその子孫について語っているので、分かりやすいのです。つまり、アブラハムに約束されたことは、今もユダヤ人にも通じるものだと言うことです。神のご支配の中にある恵みが及んでいることを表しています。

 17節から、オリーブの接つぎ木のたとえになります。園芸の世界の接ぎ木とは違いますから、よく気をつけて読んでほしいところです。

 ユダヤ人は、神様が栽培したオリーブにあたります。神が折られた枝とは、救い主を信じなかった人たちです。野生のオリーブとは、異邦人にあたります。その中から救い主を信じた人たちは、もとのオリーブに接ぎ木されたと表現されています。もとのオリーブとは、アブラハムたちの先祖です。彼らに与えられた約束が実現するのです。

 今、異邦人である私たちは、その根から豊かな養分を受けているのです。それはイエス・キリストを通して与えられているのです。死んでいたたましいが生かされ、神の愛が注がれているのです。永遠のいのちを与えられ、神の子どもとされているのです。豊かな養分です。

 ですから、私たちは「誇ってはなりません」。ユダヤ人が不信仰によって折られたのなら、信仰にとどまり続けなければ、私たちも折られ、恵みから切り離されるのです。「思い上がることなく、(神を)恐れなさい」と命じれられているのは、当然です。

 22節の「ですから見なさい。神のいつくしみと厳しさを」という言葉は重要です。私たちが主イエス・キリストにとどまり続け、主に信頼し続けることは、どうしても必要なのです。ぶどうの木のたとえで、主イエスが「とどまりなさい」と語られたことがどんなに重要なことであったか、思い巡らしましょう。

 17節から、パウロは「あなた」と単数のことばを使います。一般論でなく、ローマにいるクリスチャン一人ひとりに自覚してほしい、理解してほしいと願っての言葉遣いです。私たちも、救いを誇ることなく、従順に主イエスを信じ、御言葉に聴き、従って生きて行かなければ、折られ、捨てられる危険があるのです。どうして、この救い主から離れていけるでしょうか。「主よ、あなたは私の救い主です。あなただけです。お頼りします。愛します。感謝します。」

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