礼拝メモ 6月23日 『あわれみの器」
聖書 ローマ人への手紙9章6節〜33節
パウロは、ユダヤ人が救われていない現実に心の痛みと悲しみを感じていました。同胞の救いを願うパウロには、大きな問題でした。そして、ローマの教会の人たち、中にはユダヤ人もいたのですから、同じ問題を、同じ痛みを共有してほしかったのです。それで、この問題を書いています。
ユダヤ人が民族として救われていないからといって、神の約束が反古ほごにされているわけではありません。パウロの議論はいくつかの曲がり角を曲がって、結論へと向かいます。
まず、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです」と記されます。イスラエルの肉体的子孫がみな、神の約束を受けた人ではない、という事実を語ります。つまり、信じないイスラエル人と信じるイスラエル人の区別があると言うのです。
次にアブラハムの子孫にも同じことが言えると、イサクが祝福の相続人であることを上げ、イサクの双子の子どもたちにも、同じことが言えると論じます。
この時、パウロは創世記とマラキ書を引用します。「兄が弟に仕える」と、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」です。どちらもヤコブとエサウという個人を言っているのではなく、それぞれの子孫について言っています。国民としての選びについての語りかけです。
次に「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」という語りかけがあります。神様は勝手気ままにあわれんだり、いつくしんだりするわけではありません。人間の心深くを見ることのできる神様は、なんらかの基準をもっているのでしょう。しかし、人間の目には分からないことがあります。神様の主権があるのです。
神様がエジプトのファラオの心を頑なにしたことが取り上げられていますが、それも神様の勝手な思いつきでなされたのではありません。人間性のゆえに、頑なにすればするほど、心が頑なになるものなのです。でも、それを神様のせいにして文句を言うことがあります。パウロはそれも扱います。神様は創造主ですから、主権を持っておられます。そのうえで、寛容と忍耐を表しておられるのです。本来、人間に神様のなさることに文句を言う資格などないのです。それにもかかわらず、忍耐をして扱っておられるのです。究極的には神様の栄光が現されることが目標です。
パウロは、あわれみの器として選ばれた人たちに触れて、ホセア書を引用します。そして、異邦人にまで及ぶ神の愛を証しします。大切なのは、信じて頼る心です。自分の力と努力で、神様から義と認めてもらおうとするユダヤ人は、それを受けられず、義を求めなかった、異邦人である私たちが、ただ救い主を信じただけで、罪なき者として受け入れられたのは、ただただ恵みなのです。