礼拝メモ 6月16日 『愛の痛み』
聖書 ローマ人への手紙9章1節〜5節
ローマ人への手紙の中でも特別な箇所に入って行きます。ここには、パウロの心の痛みが記されています。8章では愛の賛歌を歌ったパウロですが、ここではまるで涙を流しているような、悲しみと痛みについて語っています。しかし、この悲しみと痛みは、神様の愛を知るゆえに生まれるものです。その事は、随所に感じられます。
3節では、「私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら」と語り出します。パウロは救いを受けていないユダヤ人に対して、「自分の兄弟たち」と語ります。彼の愛が現れています。
さらにその先に「私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となっても良いとさえ思っています」とあります。すさまじいばかりの願いです。パウロは別の所でこう言っています。「主を愛さない者はみな、のろわれよ」(Ⅰコリント16:22)。そんな強い言葉を使ってまで、ユダヤ人の救いを願い求めているパウロです。(出エジプト記には、自分のいのちを差し出すようにして取りなしたモーセの姿が描かれています。「もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」出エジプト32:31-32)。
ユダヤ人は様々な特権をいただいていました。契約の民であり、特別に養子とされ、神の臨在を知り、神殿の礼拝が行われ、救い主の約束が与えられていたのです。しかし、彼らは救い主を信じませんでした。そこに、パウロの悲しみと痛みがあったのです。
この段落の最後で、パウロはキリストをたたえています。「キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。」
パウロは、万物の上にあるキリストがユダヤ人を忘れることがないことを知っていました。
パウロの心の痛み、悲しみは、イエス様が通られた道を通っていることを表しています。ラザロが死んで墓に葬られたことを知り、イエス様は涙を流されました(ヨハネ11:35)。それを見た人たちは、「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました(36節)。愛のゆえの涙であったのです。パウロの悲しみ、痛みも、愛のゆえなのです。
パウロは、教会を迫害し、クリスチャンを捕らえて牢に閉じ込めようとしました。ステパノの殉教の時には、石を投げる人たちの上着を管理したのです。そんなパウロが、ダマスコまで出かけたとき、イエス様が彼に現れ、「なぜわたしを迫害するのか」と問いました(使徒9:4)。そして、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と聞いたとき、自分がのろわれるべき者であることを知ったのです。その自分が赦されて福音を伝えるとき、同胞の救いを祈らずにはいられなかったのです。私たちも家族や知人のために祈りましょう。