礼拝メモ 6月9日 『神の愛、キリストの愛」

聖書 ローマ人への手紙8章31節〜39節

 ペンテコステは、主イエスが天に帰られる前に約束された「神の賜物」を注がれた出来事です。それは、聖霊が降った出来事でした。使徒の働き2章に詳しく書かれています。その聖霊が注がれて、弟子たちは変えられました。パウロの書いている、このローマ人への手紙は、そんな聖霊のみ業をたたえている手紙でもあります。

 その手紙の中でも、この8章の部分は、クライマックス的な部分です。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」これは、1章からの結論のような言葉です。神さまは私たちのために立っておられるのです。いつも味方をしようとしている方なのです。日本人は「触らぬ神にたたりなし」という感覚が強いです。しかし、まことの神さまは、たたりをするために立っているのではありません。味方をするためです。それを証しするのが、「私たちのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された」(32節)神さまの愛のみ業です。

 まるで神さまは、御子イエス様よりも私たちの方が大切であるかのように感じさせる言葉ではないでしょうか。ですから、「御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださる」のです。

 その御子の身代わりの死によって、私たちは赦され、義とされ、永遠のいのちを与えられたのです。だれが神に訴えても、神さまが義とした人を罪に定めることはできません。「神に選ばれた者たちを訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるイエス・キリストが神の右の座につき、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです」(34節)。

 31節から「だれが、だれが」と語ってきたパウロは、味方である神様の愛、キリストの愛に心がふるえていたことでしょう。そして、「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」と問います。「苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」と死に至らせるものを列挙しています。パウロは何度も死に直面した人です。「私は日々死んでいるのです」とも言っています(Ⅰコリント15:31)。

 しかし、パウロはキリストの愛、神の愛によって堅く立っています。「これらすべてにおいても私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(37節)。死ぬほどの苦しみにあっても、愛に生きている限り勝利者なのです。「ゆうゆうと勝つことができる」、「輝かしい勝利をおさめている」、「勝ちえて余りあり」と訳されることがあります。

 ペンテコステに聖霊が注がれて、このような素晴らしい愛を知ることができ、愛されて御国にまで行くことができる幸いは何にも替えられません。感謝です。

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