礼拝メモ 4月28日 『律法と御霊』
聖書 ローマ人への手紙7章1節〜13節
この章は、律法の問題に目を向けています。ユダヤ人にとって、ゆるがせにできない問題だったのです。
1-6節では、律法はクリスチャンにとっては、その働きが終わったかのように扱っています。ここでは、夫婦と死のたとえで、律法は死んだ者には働かないことを語っています。4節には、「キリストのからだをとおして」とありますが、これは十字架につけられて死んだからだであり、バプテスマでキリストと一つになり、死んでよみがえられたからだをとおして、という意味です。
そのことを6節は、別の言い方をしています。「しかし今は、私たちを縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」バプテスマを受けた時、私たちは罪の束縛から自由にされただけでなく、律法の命令、戒めから自由になったのです。
それは、旧約聖書の様々な規定から解放されたことを意味します。罪に定めないということです。しかし、何をしてもいいと言うことではありません。「新しい御霊」によって仕える生涯が待っています。そこに生まれるのがホーリネスです。そして、律法は、新しい役目をもつようになります。新しい御霊によって仕える方向付けをしてくれるのです。
パウロは「欲しがってはならない」という第十戒が心に響いてきたとき、反対に欲しがる自分に気がついたのです。これは、律法の第一の役目です。
罪に気がついたパウロは、苦しみました。それは、死の罰を受けなければならないと分かったからです。しかし、主イエスの十字架の死によって、その罪が赦され、救い主と信じることによって義と認められるという恵みが与えられたのです。ぞっとするような罪の自覚から、神のあわれみをいただいたパウロは、新しい御霊の恵みをいただき、心にホーリネスをいただいたのです。
律法の中には、「目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない」とあります(レビ記19:14)。聖霊は、ただつまずく物を置かないだけでなく、不自由な者をさらに苦しめるようなことはしないように、教えてくださいます。そこに愛を生み出してくださいます。これは、新しい律法の役目です。
そのような恵みを受けて、信仰生活を楽しんでゆくとき、天に召される時を迎えます。ある宣教師が43歳で召されたとき、ご主人は、こう書きました。「私はここにはいません。イエス様といっしょに出かけています。私は世の終わりの最後のラッパが鳴る時、帰って来ます。」ここには、再臨と復活の希望が表されています。聖霊に拠り頼み、日々新しくしていただいて、主の恵みに生きましょう。それは、主の栄光になり、人々の希望になるでしょう。