聖書 ルカの福音書18章1節〜14節
タイトル 「イエスと祈り⑵」
先週に続いて、祈りについてのイエス様の教えを学んでみたいと思います。
この箇所には、二つのたとえが書かれています。前半は不正な裁判官のたとえ、後半はパリサイ人と取税人の祈りのたとえです。
不正な裁判官のたとえには、前置きがあります。「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるため」となっています。やもめが登場します。経済的にも社会的にも最も弱い立場の人です。主人が残した財産を悪徳商人に奪われそうにでもなっていたのでしょうか。裁判官のところに訴え出たのです。この裁判官は、「神をも恐れず、人を人とも思わない」という悪人です。賄賂を好む人でしょう。でも、このやもめにはそのような余裕はありません。助けてくれる親類もいないのでしょう。ただ、粘り強く訴え続けることしかできません。しかし、この裁判官は根負けして、裁判をしてやろうとします。
このたとえを話されたイエス様の真意は、この裁判官と真の神の違いを際立たせることで、いつでも祈り、失望しないようにと教えているのです。この裁判官は反面教師となっています。神様は、愛といつくしみに満ちた方です。この裁判官のように、仕方なく応える方ではないのです。
次のたとえには、二人の人が登場します。まずパリサイ人です。彼は、自分の避けてきたことを示して感謝し、それから自分がしていることを祈っています。断食と十分の一の捧げ物については、聖書に言われている以上のことをしていると、自慢しています。「心の中で」祈ったとありますが、独り言の自慢話しをしているように見えます。基本的には、彼は他人と比べて自分を良く見せようとしているのです。これでは、神様は顔をしかめるばかりでしょう。
取税人は、「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて」祈ります。彼は自分の罪の自覚に苦しんでいます。これまで、自分のしてきたことに光が与えられて、神様の前に出る資格のない者として、ただ「あわれみ」を求めることしかしていません。
この取税人が求めるあわれみは、「人間の罪を取り除いて、神様との交わりを妨げる障壁を取り除くこと」を示唆しています。これは、イエス様の身代わりの十字架によってなされるあわれみのわざです。ですから、この取税人は、罪を赦されて、家に帰ることができたのです。
高慢な者の祈りは、神の前に届きません。
他人を軽蔑する人は、正しい意味での祈りを捧げることは難しいのです。
神とともに生きるところに、真の祈りが生まれるのです。神様の聖さやイエス様の愛と自分を比べて、あわれみを求めつつ生きてゆくなら、平安と慰めと喜びが与えられるのです。へりくだって生きる者でありますように。自分を飾って良く見せようとしない自由を与えていただきましょう。