聖書 ルカの福音書9章28節〜43節
タイトル 「イエスの姿変わり」
イエス様は、バプテスマ(洗礼)を受けてから伝道活動に入りました。これは、大きな転機でした。その伝道活動の中で、この姿変わりも一つの転機でした。
この前に起こってことを理解しておきたいと思います。それは、弟子たちがイエス様をキリストと認識した出来事でした。しかし、弟子たちには彼ら独特の「キリスト像」がありました。それを打ち砕くようなイエス様の言葉が語られたのです。「人の子は多くの苦しみを受け」、「捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」ということでした。弟子たちには、特に「殺され」という部分が分かりませんでした。そんなに救い主は弱いのか、と思ったのでしょう。しかし、それは救い主の通らなければならない道でした。「よみがえらなければならない」は、その結果なのですから。イエス様と弟子たちの間に、何かしっくりいかない日々がながれました。
この日は、高い山の上でイエス様が祈っていたとき、そのお姿が変わったのです。白く光り輝いたのです。それだけでなく、二人の人が現れて、イエス様と会話を交わしていました。それがモーセとエリヤであることが、弟子たちは分かったのです。会話の内容は、「エルサレムで遂げようとしておられる」イエス様の「最期」のことでした。
ペテロが三つの小屋を建てましょうと提案をしたのですが、雲に覆われて、弟子たちは恐れを感じます。雲の中から「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」という声が聞こえました。あとには、イエス様だけがおられました。
イエス様の輝きは、内側からの輝き、罪のない聖い方であることからくる輝きでした。そのまま、天に帰ることもできる方でした。その方が、十字架で死に、三日目によみがえり、天に帰る方なのです。
律法を授かって人々に与えたモーセは、人々がそれを守れないことを承知していました。また偶像礼拝から真の神に立ち返らせようとしたエリヤも、彼らの信仰が長続きしないことを分かっていました。救い主は、そんな人々を作りかえるために、十字架で身代わりの死を遂げなければならなかったのです。そこに、モーセもエリヤも希望を託していたのです。
天からの御父の声は、イエス様が喜びの対照であり、全権をゆだねた方であることを示しました。栄光に輝くイエス様は、山の下へ降りて来て、悪霊に苦しむ親子を助けます。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」(ヘブル13:8)。今も、私たちを助けてくださる方です。この方に信頼して、お従いしてゆきましょう。