聖書 マタイの福音書5章43節〜48節
タイトル 「イエスと律法」
イエス様の生涯の印象として、奇跡が取り上げられることがあります。しかし、イエス様の大切な特徴は、その教えにあります。この山上の説教と言われる、3章にまたがったお話は、その中でも最も有名であり、重要なものです。まず、5章全体を学びます(マタイがこのようにイエス様の教えをまとめた箇所が5カ所あります。それぞれに「終える」という言葉で区切られています)。
さて、この5章の最初にある「幸いです」という言葉は、八福と呼ばれたりする箇所です。ここで言う「幸い」は、世の中の幸いとは別物です。「心の貧しい者」とは、神様の前で自分の心を広げてみたら、何もなかったという貧しさを言います。そのような自分の姿を見たら、神様に助けてくださいとお願いするしかありません。その時、神様は助けてくださるので、幸いなのです。
次に「地の塩」、「世の光」としてクリスチャンの果たす役目があることが記されています。
さらにイエス様は預言の成就だけでなく、律法の成就もなさる方であることが示されています。そして、当時の社会で考えられていた律法に対する常識を覆す真理を話します。「殺してはならない」とは、人間の尊厳を認めないところから生まれる罪を示します。そのほか、「姦淫してはならない」と離婚の問題、誓いについての言葉の問題、報復と善意のお返しの問題、そして愛の問題が語られます。人間がうわべしか見られないのですから、心を見る主の前に立っていることを覚えながら読んでゆくなら、理解が深まるでしょう。
愛についての勧めでは、敵を愛し、迫害する者のために祈ることが指示されています。神の愛は分け隔てなく注がれていることを土台にして、隣り人を愛していゆくことが求められています。でも、そんなことは簡単にできることではありません。ですから、心の貧しい者として主に頼るのです。
私たちは人からひどい仕打ちを受けると、その人を憎んでしまいます。しかし、その人が主から愛を受けるなら、そのような仕打ちはしなくなるでしょう。ですから、ひどい仕打ちを受けたとき、その人の救いを祈ってあげるのです。それこそ、愛の表れとなるのです。
主は、私たちを助けたく願っています。その究極的な表れが、イエス様の十字架となったのです。それは、身代わりになって、罪からの解放を約束してくださった愛の表れでした。このイエス様の愛に、私たちの心が満たされるとき、迫害する者のために祈ることができるのです。
イエス様、あなたの愛を私たちの心に注いでください。