聖書 マタイの福音書3章13節〜17節
タイトル 「イエスとバプテスマ」

 イエス様が十二歳で神殿で教師たちと話した出来事は、まだ公の働きの前の出来事です。イエス様が三十歳になられ、バプテスマのヨハネの活動が始まると、イエス様も動き出します。
 バプテスマのヨハネは、荒野で伝道活動をしたのですが、人々は続々と彼のもとに集まってきました。普通の市民だけでなく、パリサイ人やサドカイ人などもやって来ました(3:7を参照)。時には、ヘロデ王にさえ、罪を指摘する人でした(14:4を参照)。しかし、イエス様には、「その履き物を脱がせてあげる値打ちもない」と謙遜でした(11節)。
 ですから、イエス様がバプテスマを受けにやって来たとき、ヨハネは「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずです」と言います。それには、罪のないイエス様が、悔い改めのバプテスマを受けることに違和感を感じたのもあるでしょう。しかし、イエス様は、罪人の仲間になるために人となられた方です。これは正しいことなのです。
 イエス様がバプテスマを受けて水から上がられた時、天が開け、不思議なことが起こりました。天からの声と聖霊が降られたことです。
 天からの声は、父なる神様がイエス様を救い主として認めて、就任の式をしているようなものです。「これはわたしの愛する子」という声は、詩篇2篇のこだまです。この詩篇は、王である救い主の預言をしています。また、「わたしはこれを喜ぶ」のみ声は、イザヤ書42章のしもべの預言を表しています。つまり、天からの声は、イエス様が王として、また主のしもべとしての救い主の使命がゆだねられたのです。
 また、この「わたしはこれを喜ぶ」との言葉には、イエス様の誕生から三十歳になられ、大工として働いてきたことに、喜びの声をもって認めた意味もあります。これは、私たちの労働に対する神様の喜びが反映しています。
 イエス様の上に聖霊が鳩のように降られたことは、救い主の使命を果たすために聖霊の満たしが必要であることを表しています。そして、イエス様が聖霊を必要とされたように、私たちも聖霊を満たしていただかなければ、みこころに沿った歩みをすることができないことを教えています。
 イエス様が天に帰るまで、聖霊によって弟子たちに命じられたことは(使徒1:2)、私たちが聖霊の助けなしに信仰生活を送ることが不可能であり、求める者に絶えず聖霊を注いで下さる恵みを思い起こして、み言葉に頼りつつ、聖霊の助けをいただいて生きることを教えています。

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