聖書 ペテロの手紙第一 1章3節〜9節
タイトル 「聖霊の実・喜び」
使徒パウロは、御霊の実を九つ、上げています。しかし、「実」という言葉は単数形です。つまり、九つの部分がある房のようなものだと言うことです。最初の愛がすべてに関係しています。喜びは高められた愛で、ペテロの言葉では、躍っている愛です。
私たちの人生から喜びをなくしたら、どんなに味気ないものになってしまうでしょう。しかし、どんな喜びでもいいわけではありません。ひいきのチームが勝てば、うれしいのは、自然な喜びです。麻薬などを使うのは、不自然な喜びです。でも、聖書にある喜びは超自然の喜びです。
使徒たちは最高議会でムチを打たれて追い出されたとき、「御名のために辱められるに価する者とされたことを喜び」ました(使徒5:41)。普通では喜べないような状況の中で喜んでいます。これは、超自然の喜びです。
主イエス様は、弟子たちが伝道から帰って来たとき、悪霊が従ったと喜ぶ姿に対して、「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのでなく、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われました。目に見えることは次々に変化してゆきます。しかし、天に書き記された名前は消えません。この事実に喜びの土台を置くことを勧めたのです。
主を喜ぶことは、主のみこころに従ってゆくときに経験することです。神のきよいみこころが分かって罪を悲しんでも、神の赦しの恵みを知って、神を喜ぶことができます。ネヘミヤ8章10節にある「今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」の言葉は、罪の赦しを喜ぶことから、主を喜ぶことへと移っています。
「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37篇4節)。イエス様ご自身が私たちの喜びになるのです。ペテロは、このことを、今は見ていないけれども愛して、信じて、喜びに躍っていると書いています。
イザヤは、主を喜びとする秘訣を、「自分の好むことを求めず」「主が好むことをする」ことと言っています(イザヤ58:13-14)。日曜日は主イエス様の復活の記念日です。この日の礼拝を守れることは、イエス様を愛し、喜ぶ者の特権です。
主イエス様が十字架に死に、三日目によみがえられたことを、自分の身に当てはめ、罪に死に、神に対して生きた者とされたことを認めて、喜んで生活しましょう。「イエス様、ありがとうございます。あなたの愛がなければ、生きていても意味がありません。こんな者を愛して、死んでくださり、永遠のいのちを与え、神と交わる幸いな生活を送れることを感謝します。」