パウロは前に福音を伝えたガラテヤ地方の教会に、ユダヤ教の儀式を持ち込もうとする人たちが入り込んだことを聞き、この手紙を書きました。彼の言いたかったことは、儀式より信仰が大切だということです。その信仰について、この5章、6章は説明しています。生まれながらの古い人間性で生きるのでなく、聖霊によって生きるように勧めています。
イエス様を心に迎えていないと、人間の古い性質は罪に誘います。その結果、「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興」などが生まれるのです(19-21節)。そして、このようなことをしている人は「神の国を相続できません」。
しかし、イエス様を心に迎えている人は、聖霊が宿っているので、イエス様の持っている品性に近づいていけるのです。パウロはここで、九つの品性を挙げています。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です(22-23節)。パウロが『御霊の実』と言うとき、その実は単数形です。つまり、この九つの品性は、葡萄の房のようにひとまとまりになっているということです。
「実」を結ぶためには、種が蒔かれなければなりません。マルコの福音書に、イエス様の次のような言葉があります。「人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに、種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそのようになるのか、その人は知りません。地はひとりでに実をならせ、始めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」(4章26-29節)。実を結ぶ前に時間が必要なことが分かります。
それでは、その種とは何を指しているのでしょうか。ペテロの手紙の中に次のような言葉があります。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」(Ⅰペテロ1:23)つまり、神のことばが種であると言うのです。聖書のことばに親しむことは、私たちが御霊の実を結ぶために必須のことです。
イエス様は、有名な葡萄の木のたとえで、イエス様につながっていることを強調しました。それはまた、イエス様のことばに親しむことを抜きにしては考えられません。
私たちは御霊の実を結ぶために、時間が必要です。時間をかけて聖書を読み、聖書の中にイエス様の恵みを見いだし、感謝して生きることが必要です。これはクリスチャンの特権です。多くの実を結ぶことにより、神様は栄光を受けると、イエス様は言われました(ヨハネ15:8)。
最後に、御霊の実の中心には神の愛があるということを覚えておきましょう。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)イエス様のこの愛をいただいて生きるとき、自然と御霊の実が結ばれるのです。ハレルヤ。