聖書 詩篇139篇1節〜18節

この詩篇は、6節ずつの段落が四つあります。そして、作者は他の人のしなかったような心の開き方をしています。

まず、最初の6節には、作者ダビデを「知っておられる」神を描いています。
神について考えると、ダビデの何もかも知っておられるということが、まず心に上ってきたのです。常住坐臥、一挙手一投足、すべてご存じの方、これがダビデの心に浮かんだ神の姿です。

それだけでなく、心の思いも、それが言葉になる前、そして口から出た言葉のすべてをご存じの方なのです。人には見えなくても、神様には分かるのです。
そのような神様を思い、ダビデは逃げ出したくなったのでしょう。次の6節では、どこにも逃げられないことを歌っています。

彼は、神様から逃げることを「御霊」から逃げると表現します。御霊は神様だからです。

どこへ逃げることを考えたのでしょうか。

「天」と「よみ」は、上下関係のことでしょう。「暁の翼」と「海の果て」は、横の広がりのことでしょう(海とは地中海のことです)。どこへ行っても、神様の手から逃れられないのです。たとえ「闇」に逃げ込んでも、神様にとってはそこも昼と同じように見えるのです。

エレミヤは、こんな言葉を残しています。

「人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができなのか。主のことば。天にも地にも、わたしは満ちているではないか。主のことば。」(23:23)

そう、神様はこの宇宙に満ちている方です。だから、逃れられないのです。

ダビデは、一つの逃げ口を探せて、自分が生まれる前の胎児の状態を考えます。しかし、そこには、彼が思いもかけなかったほど、神様の御手が働いていたことを知らされたのでした。

「隠れた所」であり「地の深い所」である子宮の中は、神様のみ業の場なのでした(15節)。私たちの身体は、神様のみ業の連続の中で誕生したのです。

「私が目覚めるとき、私はなおも、あなたとともにいます」(18節)。
これは、死後の世界から復活すること、つまり、将来に目を向けて考えたときのことです。

パウロの言うように、「私たちは神の中に生き、動き、存在している」のです(使徒17:28)。驚くべきことです。

これまでの考察を踏まえて、ダビデは、19節以下で、神様の臣下になると発言しています。そして、最後に、すべてを明け渡し、「私を探り、私の心を知ってください」と懇願します。
そして、「とこしえの道」へと導いてくださることを願います。この祈りを聞き上げてくださる神様とは、父なる神様であり、イエス様であり、聖霊様です。

ダビデのように、主とともに歩みましょう。

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